こんにちは。耳澄(@siegmund69)です。

さて1986年クライバー&バイエルン国立管弦楽団の日本ツアーは、5月9日初日の翌日には朝日新聞に演奏会評ではなく、社会面に記事が載るなどメディアの関心の高さが伺えられました。当時の報道や演奏会評については、初回でも触れた「クライバー現象」を考える上で興味深いので次回以降の連載で触れたいと思っています。
1986年5月18日
本来千秋楽のチケットを取ったはずだったのですが、急遽追加公演が入ったため、5月18日の公演は最後から2番目の演奏会となりました。
初日からしばらくして、朝日新聞には吉田秀和が「音楽展望」でベートーヴェンを絶賛したこともあり、再びクライバーを聴けることに興奮している私でしたが、初日のオケの状態を思い返すと一抹の不安も覚え、心ざわつきながら世田谷は三軒茶屋の会場に向かうのでした。
当日のプログラム
5月18日(日)開演14:30
昭和女子大学人見記念講堂
Bプログラム
ベートーヴェン:交響曲第4番 変ロ長調 作品60
ベートーヴェン:交響曲第7番 イ長調 作品92
指揮:カルロス・クライバー
バイエルン国立管弦楽団
ドイツ式の配置(下手から1st→2nd→Vc→Va。CbはVc奥)
ベートーヴェン:交響曲第4番
オルフェオ盤の魅力
あの鮮烈な1982年オルフェオ盤で最も好きな箇所のひとつは1楽章の展開部冒頭でした。この展開部の頭、主調の変ロ長調からイ長調に転じて第1主題のモチーフをpp(ピアニシモ)で繰り返していき、そこから駆け上がってニ長調の晴れやかなフルートへ導きます。

この録音では、提示部の熱い高揚がまだ火照っている中、スコア通り弱音を保ちながらチェロバスを克明に刻むことで緊張感が増し、マイクが捉えた譜めくりの音と相まって、緊迫感さえある音楽になっているのです。
またそれに続く221小節目からの高揚していくピッツィカートに乗って1stVnとVcによる迸る熱い歌なども堪りません!

私にとって初日と大きく違うのは、2曲ともよく知っていた事と、どちらもクライバーが録音していたので彼の音楽をつぶさに把握していたことでした。
しかしそれは必ずしも実演を聴く上でプラスになるとは限らないのです。
いきなり結論をめいた事を書きますが、音盤を追体験できる事に期待しすぎるあまりに、実演とのギャップを穴埋めできず、緊張感や集中力が次第に抜けていってしまったのです。
その証拠に当時つけていた記録ノートの当日記録はたったの1ページ!
私の心情が如実に表れていたのでした。。。
クライバーの明と暗
もちろんクライバーならではの音楽はありました。
あの長い腕で煽られて反応する音楽は、まるで一緒に大きなウェーブに乗せられている感覚があり、1楽章の序奏から主部或いは再現部に入る際の勢いや4楽章の快速テンポに乗ってコーダに流れ込むあたりなど、アップダウンの快楽をもたらせてくれるものでした。
しかし、クライバーは細部には拘泥しておらず、とにかく無邪気に勢いを操るので、自ずと造形が粗くなっていくのを感じました。
そしてその結果、表面の快活さとは裏腹に音楽の構造やそれを埋める質そのものが緩くなるのです。
その一つとして先述した1楽章展開の頭が挙げられます。
静かにゼクエンツ的高揚を高めるはずの音楽は、勢いばかりが目立ち、見かけは上り坂をぐんぐん登っていくように聞こえますが、どこか空虚な音楽になってしまうのです。
確かな手応えを得られない私は、次第に目の前の音楽がどこか遠くで鳴っているような、自分の集中力の糸が切れてしまう感覚に気付き始めるのです。
救われた2楽章
しかしその失望を救ってくれるひと時もありました。
これは7番でも同じことが言えたのですが、概して緩徐楽章では指揮者も繊細さを持ち返してくれて、音楽が持つニュアンスの美しさを醸し出してくれました。
例えば2楽章冒頭。
2小節目の1stVnが入ってくる時にセカンド以下の伴奏をふっと音を抑える辺りの余情。

あるいは第17小節目
sfが作り出す回転運動あるいは波の運動を見抜いて、次の1stVnの展開へ運ぶ辺りの心地よさ!

これらの美しい体験があったせいでしょうか、4番はそれでもマシだったと朧げな記憶が語るのでした。。。
ベートーヴェン:交響曲第7番
7番はご承知のように4番よりもディオニソス的であり、ある意味で最もクライバー的な音楽のひとつです。
そしてこの日も確かに陶酔と熱狂の音楽が繰り広げられたと言っていいでしょう。
ブンブン丸のクライバーは更にオケを煽り、解放させ、「生きた音楽」は放たれ続けられました。
例えば1楽章の序奏から主部に入る際のフェルマータを気持ち長めにとって音のエネルギーを貯め、次の第1主題でそれを解放させる巧みさ。

爽快に駆け抜けるフレーズのまるで青竹がしなるような鮮烈さ。

しかしこれらを楽しみつつも、無邪気になれない自分がやはりいるのです。
生意気な高校生と思われるかもしれませんが、ここでも音楽が無法図なまでに熱狂すれば熱狂するほど、音楽が綻んでいくのを感じたのです。
特にアンサンブルでの澄んだ響きが聴こえてこないのは、音盤の聴き過ぎと言われたらそれまでなのですが、とても気になるポイントでした。
また当時若かったせいもありますが、フィナーレの最後が思ったほどのアッチェレランドでなかったことや最終和音も有無を言わせぬ圧倒的な終結でなかった等が、私を激しく熱狂させなかったのでした。。。
アンコール
ヨハン・シュトラウス2世:喜歌劇「こうもり」序曲
ヨハン・シュトラス2世:ポルカ・シュネル「雷鳴と電光」
アンコールは初日と同じ2曲でしたが、曲順はこうもり序曲が先でした。
もちろんこの日もクライバーが聴衆に向かって「コウモリ!」と一言添えて演奏を始めました。
不満の残るベートーヴェンでしたが、お祝儀のようなこれらの音楽は十分楽しませてもらいました。特に印象に残っているのは「こうもり」序曲の中間部。
例えば218小節のアウフタクトから始まるオーボエ(1幕の三重唱でロザリンデが歌う哀歌の引用)のフレーズのたゆたい。219小節&221小節の最初の16分音符にわずかなテヌートをかけるあたりのコケティッシュな香り!

それに続く222-225小節にかけて、弦楽器のまるで悲劇のオペラを聴いているかのような悲嘆!
そして思った以上にゆっくり始まる「Allegro molto moderato」

ベートーヴェンよりもこのようなオペラティックな表現こそ、クライバーには相応しいのではないかと不遜にも考えてしまうほど、生々しい快楽の音楽でした。
終宴
ステージ前に集まった多くの人たちがクライバーに握手を求める光景を眺めながら、私の熱狂の日々は終わりを告げました。
もし今の私が聴けば、当然別の感想が出ていたのでしょうが、それは無意味な話。
若かった頃の苦々しい感想もまた私の音楽受容史にとっての真実であり、あの現場の記録としての一つの証言なのだと思います。
次回はその証言という点をクローズアップして、このツアーをめぐる様々な報道や演奏評についてまとめながら、1986年のこのツアーを総括したいと思います。
ではお楽しみに!
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