読売日本交響楽団第607回定期演奏会

読売日本交響楽団第607回定期演奏会

2021年4月6日(火)サントリーホールにて開催、読売日本交響楽団第607回定期演奏会の公演記録とレビュー/コメントのアーカイブページです。

公演日(初日) 2021年4月6日(火)  19時00分開演
会場 サントリーホール
出演 指揮:カーチュン・ウォン
ヴァイオリン:諏訪内晶子
管弦楽:読売日本交響楽団
演目 細川俊夫:冥想 -3月11日の津波の犠牲者に捧げる-
デュティユー:ヴァイオリン協奏曲「夢の樹」
マーラー:交響詩「葬礼」
マーラー:交響曲第10番から「アダージョ」  
参照サイト
読売日本交響楽団の公式サイト。公演プログラム、指揮者・楽団員リスト、マエストロからのメッセージ、会員募集、当日券情報など
yomikyo.or.jp

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アリス

人が生まれれば、必ず亡くなる。天災や疫病で悲劇的に亡くなったとしても、結果は同じだ。人は生まれ、若くして志を抱き、実際に行動するが、いつからか、老いに悩みつつ、最後は何らかの形で死んでいく。多くの人から還暦を祝われるようなことは、立派な歩みに対する僅かな褒美である。ヴァイオリニストのイザック・スターンの場合、60歳の記念に、作曲家アンリ・デュティユーから『夢の樹』という独特の作品を贈られるはずだった。そのスターンが亡くなってから、今年で20年目である。

解説によれば、樹木が常に新しい枝を伸ばし、成長するイメージを作品に託したという。スターンは既に60歳だったことを考えると、アグレッシヴなメッセージだ。今宵は枝を飾る緑色の葉っぱのような衣裳を着て、演奏家として爛熟した諏訪内晶子が、圧倒的な独奏をみせた。

代役のカーチュン・ウォンも、みごとだ。独奏共々、やや煌びやかにすぎる印象こそあるが、カラフルで、活き活きとした演奏の質は高い。カーチュンはすべての楽器を巧みに生かすが、ツィンバロンや、バス・クラリネット、オーボエ・ダモーレといった珍しい楽器の響きも、ゆたかに響き、なにが鳴っているのか、なかなかつかみ難い神秘的なサウンドに包まれた。

演奏会は、細川俊夫の『瞑想』という作品に始まる。3.11 の翌年、津波の犠牲者に捧げるとして、韓国の音楽祭の委嘱を受けて作曲・初演されたものだ。カーチュンの解釈は静的で、その分、考えさせるところがある。単純に津波の怖さを再現し、フラッシュバックさせるような音楽とはいえない。痛切な悲劇から1年ほど経つと、張り詰めていたものが緩み、残された者はいちばん苦しい時期を迎える。こころの奥底に隠されていたもの(アルカナ)、例えば故人が大切にしていたものや、生前に好きだったことなどとあわせて、思い起こされる時期だ。

『瞑想』は、そうしたものへのイマジネイションに基づき、様々なる美しさ、あるいは、時空を越えた「懐かしさ」のようなものが浮かんでは消える音楽である。それが良いことかどうかは知らぬが、日本人は深い悲しみを自らのなかにしまい込んでしまう傾向が強い。細川の作品は、正に日本人そのものを描いた作品であるといえるだろう。

最初の曲で、隠されていた恐怖は、マーラーのような音楽に投映されていたともいえる。しかし、全体からすれば、それも僅かな部分で、連続して演奏された『葬礼』と、交響曲第10番のアダージョにおいて浮かび上がるのは、最終的には祈りの美しさである。祈ることで、人々は痛ましい現実と向き合い、受け止めながらも、耐えがたい苦痛から自分を守って、新しく生きなおすことができる。

マーラーはハンス・ロットという掛け替えのない存在を喪い、近年、特に1番との関係が深く指摘されるが、2番の制作にも苦心惨憺し、まずは『葬礼』という呻きのような作品を生み出した。

カーチュンの指揮は前半の曲目においては、機能的で、精確であったが、マーラーのときは打って変わって、そういうものでは、マーラーの音楽が表現できないことを物語っている。むしろ、深い揺らぎが必要なのだ。練習不足からやや平板に聴こえるときが少なくなかったのは残念だが、10番の、聖歌を裏返したような激しいカタストロフィから、最後の部分にかけては際立ってクオリティが上がり、1日の演奏を厳粛に歌い終えた。

ある意味では、謎解きのようなシンフォニーでもある。一例をいえば、ヴィオラで示される冒頭主題は、あとでホルンで吹かれたときに、もっとも美しく鳴る。先に謎を示しておいて、どこかに答えがある。そんな構造も、推測できるだろう。

この曲もやや重くなりがちだが、カーチュンの音楽は全体的に微笑んでいる。マーラーの交響曲にはしばしば登場し、『大地の歌』で厭世的に結実した ’ewig’ 音型は、やや高めに調律されて、人々の顔を前に向けるのが印象的だ。10番の最後でも、すこし顔を持ち上げる仕種がある。

『葬礼』の演奏が比較的、よく聴こえたのは、最近、ヴァイグレとともに二期会のピットを支え、『タンホイザー』の公演を成功に導いた経験も生きている。『葬礼』で魔の炎に燃やされたのは、尊崇していたワーグナーの音楽そのものであった可能性がある。2巡目でテンポを速めたときに、オマージュは全開に表れるが、最後のターンに移ると、その安定が内部から突き崩されて、乙女にそのときが来たことを知らせるのだ。

ブーレーズ盤のように、この『葬礼』はきれぎれで、勿体ないようには聴こえず、響きの煌びやかさをいくぶん落としながらも、対位法的な整然としたフォルムが聴きものとなる。交響曲第2番の原型といわれるが、私には同じ素材からつくられた、別の物語としか聴こえなかった。正に、『復活』の裏に隠されたものである。

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