東京交響楽団 東京オペラシティシリーズ 第127回
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東京交響楽団 東京オペラシティシリーズ 第127回

2022年5月14日(土)東京オペラシティコンサートホールにて開催、東京交響楽団 東京オペラシティシリーズ 第127回の公演記録とレビュー/コメントのアーカイブページです。

公演日(初日) 2022年5月14日(土)  14時00分開演
会場 東京オペラシティコンサートホール
出演 指揮:ジョナサン・ノット
オルガン:大木麻理
管弦楽:東京交響楽団
演目 ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
デュサパン:オルガンとオーケストラの為の二重奏曲「WAVES」(日本初演)
ブラームス:交響曲第3番 ヘ長調 op.90  
参照サイト https://tokyosymphony.jp/pc/concerts/detail?p_id=HfUUtgRnXjE%3D

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アリス

【フランス近現代の作品から】
ブラームスはもちろん好きだが、オルガンを使ったデュサパンの作品が組まれたことで構築できた、立体的なプログラムに惹かれ、ミューザに足を運んだ。しかし、必ずしも目当てではないブラームスの演奏で、望外の成果を得た。
1曲目の『牧神の午後への前奏曲』はある種のデジャヴーを生じさせ、今年1月の雪が降った日に、角川武蔵野ミュージアムで開かれた『浮世絵劇場 from Paris』(指揮は原田慶太楼)の思い出と接続する。『海』や『月の光』を動く浮世絵のプロジェクションマッピングをみながら鑑賞したのが印象的で、そのときの体験を重ねながら聴いた。
パスカル・デュサパンは近年、(入国が難しいために)リモートで武満賞の審査をしたり、サントリーホールのサマー・フェスで取り上げられるなどしたものの、これまで、特別に評価したいという印象はなかった。ピエール・ブーレーズ、トリスタン・ミュライユやジェラール・グリゼイといった大家が亡くなったあとの、デュサパンとなると、どこか職人的で、目新しさやスケール感に欠けるというイメージであった。その印象が大きく変わることはないものの、この日の演奏会には、うまくフィットしていた。
この作品はオペラの素材からスピン・アウトされたそうで、ブリテンの『4つの海の間奏曲』に倣ったものか、4つの「波」にわけて、単一楽章で描く中規模の作品で、揺らぎの大きい楽器としてオルガンを独奏楽器にちかい形で登場させる。このコンビは直後の定期でウォルトンを取り上げる予定で、どこか響きあう内容が組まれているようだ。やや悲劇的な響きもあって、日本の東北や東日本の広い地方を襲った2011年の大津波や、ドビュッシー『海』の表紙に描かれた北斎の浪裏絵図などのイメージから、配置されたものと思われる。ミューザのホールオルガニストである大木麻理が起用され、舞台まで降ろされたコンソールで演奏した。
作品からは攻撃的で、獰猛なイメージと、瀟洒で、精巧なつくりが同等に、あたまのなかに印象づけられた。要所で現れる複数リズムの併行からは、海の内部と表面の二重性(もしくは多層性)が窺われ、元のオペラはそうした水の生態と、人間の複雑な生き方を重ね合わせた作品だったのかもしれない。事前に録音なども確認していたが、アンサンブル・アンテルコンタンポランの元芸術監督であるノットの演奏が素晴らしすぎて、上記のデュサパンに対する印象は大きく後退した(つまり、爆上げした)。この作品はオペラ素材ということもあり、描写的な部分もあり、コンサート・ピースとしても味わい深い。

なお、この日はチェロとバスを下手に寄せ、ヴァイオリンを向かい合わせた対向配置にしており、これはフランスものの2曲で、特に効果的に生かされていたように思われる。第2ヴァイオリンからの始動や、バンダを含めたシンメトリカルな構図の強調などがあったせいである。デュサパンでは、オルガン席ちかくの左右に1人ずつ配置されたバンダが印象に残り、オルガンに次ぐ重要性を示している。フリューゲル・ホルン(仏:ビューグル)の、なんとも言えない深みある、ユーモラスな響きが耳に残った。

【驚くべきブラームス】
フランス近現代の瀟洒で、動きを感じる作品と、豪快な響きのマジックが面白い前半戦に比べても、ブラームスの交響曲第3番があれほど瀟洒に、活き活きとして、劇的に、しかも、信仰心に満ちて、繊細に響くとは驚きだった。しばしばブラームスの「田園」交響曲とも呼ばれるのどかな作品としてイメージされるが、この日の演奏では、作品のなかにあらゆるものがあったのだ。ワーグナー派と張り合えるような存在だったことを実感させる、劇的さは、特に印象的だったかもしれない。
テンポをかなりゆったりとったノットのひらめきが、最大のポイントだった。このことにより情報量が圧倒的に多くなり、管弦のバランスが見やすくなる。すると、ブラームスの控えめな旋律と地味な和声の構造に隠された美しい装飾と、響きの魔法に気づくのである。弦の響きを削った古楽的な響きは、ゆったりしたテンポの残響にコートされ、そのなかでアクロバティックに動く音の動きが、管のつくる自然なアーティキュレーションとぴったり一致する。
それだけではなく、起伏のあるブラームスの音楽で、従来は、いささか強引にも見えていた細部のダイナミズムも自然に推移し、優しい祈りの響きがたっぷりと醸成されたかと思えば、別の場面では巌のような頑強な響きが目の前に現れ、まるでワーグナーの歌劇のように、劇的な響きが立ち上がる一瞬もある。自然の様々な表情になぞらえて、「田園」的とみてもよいのだが、それだけには収まらない巨大さが聴こえる。世界全体が詰まっている。なんという名曲だろう。ブラームスとは、こういう音楽だったのであろうか?
もっとも、演奏会全体を通してみれば、「自然」、もしくは「自然」を感じることが統一的なテーマになっていたことは間違いない。『牧神』では巌に優しい風が吹き、デュサパンでは波が暴れ、時には凪ぎ、海の生き物たちの息吹きや鳥の声を感じ、『牧神』と同じだが、より激しい風を感じた。
なお、ノットの指揮はリハーサルできっちりしたものを準備しておきながら、本番ではそこから大きく動かすなどして、一回的な演奏を志向していることはよく知られるようになった。この日の演奏も、正にそのような手法で実践されたことは明らかで、まだ日の浅いコンマスに、自分のやり方を教える機会でもあったと思う。前日のサントリーホールと2日聴いたらしい人によれば、ブラームスはまったくちがう演奏だったということがSNS上に書いてある。

前半2楽章がかなり落ち着いたテンポ設定であり、歌謡的な第3楽章のテンポ設定は難しそうに思われたが、さらに一段ギアを下げてのゆったりした優しい歌となり、特にホルンのソロに焦点が絞られた。終楽章はそこまでと比べれば、ややキビキビとしていたものの、依然、堂々とした雰囲気は変わらない。この楽章で渋みがぐっと増し、音楽は豊かさのなかにも、寂しさを加えていく。しかし、フィナーレで、弦がきらきらと星空を描くように、静かに瞬く場面はあまりにも美しく、平静な感情を保つのは難しかった。1階の前のほうの席にいたおかげで、管楽器はあまり見えなかったものの、この忘れがたい、類稀なる弦の響きを目前に体験できたことは幸運だったかもしれない。
ブラームスというと、渋いとか、枯れたというような形容詞がよく使われるが、さらに強い苦みと、それとは対照的な愛や、優しさを同時に感じ取り、闇よりは光がつよく射すと、演奏がおわる瞬間、私は、顔を上げるのも難しいほどになっていた。ノットが時空を支配していたので、終演後に深い沈黙を築けたのも必然である。

こんな最高の演奏のあとには本来、何も要らないのだが、さらにアンコールとして用意されたマーラー『花の章』で、演奏会はいっそう深度を増しておわることになった。やや暗めの印象をもたれるマーラーだが、『花の章』はブラームスで傷ついた聴き手のことを、優しく癒す詩情に満ちていたのである。

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