日本フィルハーモニー交響楽団 第732回東京定期<春季>

日本フィルハーモニー交響楽団 第732回東京定期<春季>

2021年7月9日(金)サントリーホールにて開催、日本フィルハーモニー交響楽団 第732回東京定期<春季>の公演記録とレビュー/コメントのアーカイブページです。

公演日(初日) 2021年7月9日(金)  19時00分開演
会場 サントリーホール
出演 指揮:沖澤のどか
ヴァイオリン:三浦文彰
管弦楽:日本フィルハーモニー交響楽団
演目 モーツァルト:歌劇「魔笛」より序曲
ベルク:ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」
メンデルスゾーン:交響曲第3番「スコットランド」イ短調 op.56

翌日も同プログラム  
参照サイト
演奏会「第732回東京定期演奏会<春季> 」について、日程や会場、出演者、チケット購入方法、見どころ聴きどころをご紹介しています。
japanphil.or.jp

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アリス

指揮者がプログラミングのなかに潜ませた遊びごころを読み解くことが、私は好きだ。すべての謎が解けるわけではなく、誤った解釈もあるだろうが、自らの愉しみのなかで、多少の的外れがあっても、それに対して異常に固執することがなければ、罪はないはずである。私の推理が正しいかどうかは別として、指揮者は作曲家たちの師弟関係など、技術・技法や魂のつながり。時代的な関連性や対比。精神や哲学、もしくは宗教の問題。調性のつながりや、音楽のバランスなどを考えながら、1日、もしくは複数の演奏会をデザインすることがある。

今回の、沖澤のどかと日本フィルの演奏会においても、いくつかの仕掛けに私は気がついた。まずは、「3」である。プログラムに載せられたのは、3曲。前プロに置かれたモーツァルトのジングシュピール『魔笛』(序曲)が、3という数字にこだわってつくられていることは、よく知られている。

指揮台に女性の沖澤を迎える今回、日フィルはさらに、コンサートマスターとヴィオラ首席という3人のフロントマン(フロントパーソン?)に、すべて女性を据えたが、これも偶然とは思えなかった。メンデルスゾーンの交響曲第3番と、ベルクのヴァイオリン協奏曲がダブル・メインとなる演奏会だが、それらの演目では、ヴィオラに重要な役割が与えられており、沖澤・千葉・安達という組み合わせには、偶然としても縁を感じる。沖澤は楽団に初登場。千葉はこの席次で演奏会を取り仕切るのは多分、初めて。安達は最近の新入団員というフレッシュさも重なる。

3の次に重要なのが、「2」であった。『魔笛』の序曲は二部的な構造になっており、善と悪、光と闇、男と女が背中あわせで裏表になっている作品の構造を、象徴している。ベルクのヴァイオリン協奏曲も、それぞれの楽章で二部的な構造を抱える作品である。

メンデルスゾーンの交響曲第3番については、そこまで単純にはいえないが、4、3、2、1という数字が複合されている。楽章は、4つである。ただ、同じ作曲家のヴァイオリン協奏曲のように、アタッカでつながっているわけではないものの、4つの楽章が通しで演奏されることもあり、作曲家もそれを望んでいたという。沖澤は、正にその形で演奏した。

第1楽章は手が込んでおり、繰り返しも含めると、頭でっかちな構造がみられる。そのため、最初の楽章から第2楽章につなぐところが、いちばんハードルが高く、そのために1のあとに間をとる場合は、2と3・4を直結させる意味もあまりない。反対に第3楽章から第4楽章は流れるように演奏でき、これらは容易に連結し得る。結局、単純に4つの楽章に分けるか、3・4を連結して、3楽章形式のようにして演奏する例が圧倒的に多い。ただ、最初のヤマを越えてしまえば、メンデルスゾーンが考えていた楽曲の構造をそのまま味わうことも可能になるわけだ。その場合でも、前後半のそれぞれ2楽章ずつが連結してイメージされ、大きな1つの構造のなかで、「2」を内包していることがわかる。この作品は、本日の数字のマジックの最後を飾るに相応しく、複雑な論理的構造を採っているわけである。

メンデルスゾーンの1→2の問題をクリアするために、沖澤が知恵を絞ったあとが窺える。その典型的な回答は、序曲の二部的な構造にあった。弦に声を移したファンファーレ的な3連の和音に始まり、バロック的な序奏を経て、動的で快活な前半を終えると、間をあけて、ザラストロ教団の不思議な哲学を象徴するような、最初とはちがう(金管主体の)3連のファンファーレが鳴り響き、より表情ゆたかな音楽が構成される。異質なものが深く関連しあい、作用を及ぼし合うことは、むしろ、普通なのである。

私はこの公演の間、しばしば4月のムーティの公演を思い出していた。予定どおりなら、昨年、沖澤も受講するはずだった『マクベス』では、次々に異質な音楽が衝きあわされるからだ。『魔笛』にみられる手法は後世にわたっても、広く用いられるものとなった。今日の演奏では特に、前半部分がシンフォニックに、後半部分がオペラ的に聴こえた。純粋音楽的な管弦楽的部分と、オペラ的な部分を塗り分けた演奏ということでも、共通点が見出せるプログラムだった。

三浦文彰の独奏によって演奏された、ベルクのヴァイオリン協奏曲の第1部はシンフォニックに、後半部分は舞台の音楽として聴こえてきた。これは夭折したアルバン・ベルクにとっては未完の歌劇『ルル』と同じ時期に書かれたが、それに加えて、『ヴォツェック』のイメージが浮かぶのは、特徴的な管弦楽法の響きによっているはずだ。『ヴォツェック』の赤い月のシーンや、『ルル』の終結の雰囲気は、この作品にも欠かせない。

その点において、最初からよかったとは思わない。幻覚のようにモティーフが見え隠れする冒頭部分は、意外な健やかさで奏でられ、その分、神秘的な各部の連なりは、なかなか魅力的に結びついてこなかった。この作品は、日フィルのオーケストラにも、そして、多分、客層にも、不向きなのかと思う一瞬はあった。

しかし、中盤から自由なアンサンブルが増えると、一転して、作品に活気が増してくる。それは、ジャズ的にも聴こえた。ベルクの流儀を「十二」分に知っている、米国の委嘱主はあまりにも奇妙な曲にはしないように釘を刺したそうだが、そこでベルクが思いついたのは、ジャズの発想であった。他では贖うことができないベルクの深層的な歌の詩情は、多分、その演奏家にも伝わっていたはずだ。ベルクは歌劇のほかに、味わいあるリートの作品を残しており、彼の尖鋭すぎる手法を「声」が守ったという面は否定できない。

一方で、ベルクの作品とジャズの関連性を探れば、一見、難解とみえたものが、よりふくよかな姿態を示すこともあるのだ。ウェーベルンの音楽に対して、それをいうのは無理があるが、前衛的な作風とみられた作曲家のなかでも、ストラヴィンスキーやベルクにとって、ジャズの要素は欠かせないものだったと考えている。ベルクは新ウィーン楽派の音楽理論の一歩先に、より自由で、内的欲求の表現という師の主張する本論にとっては、より重要な表現の揺らぎを構築した。

伝統的には、そのような揺らぎはルバートという方法で達成されていた。この日のメンデルスゾーンの演奏では、正にこのルバートのパターンの品評会のようにして、沖澤が様々ムーヴメントを日フィルのアンサンブルに注ぎ込み、その品位の高さによって、常ならぬリッチなサウンドへと織り込まれたように感じられたのである。惜しむらくは、最後の最後で、このクオリティの高さが失われ、粗忽な響きでクライマックスが構成され、それまで一体となっていた響きが俄かに秩序を失ってしまったことである。もっとも、このアマチュアのような響きこそが、彼らの個性といえばいえなくもないし、そこだけで悪くいうことはできない。

メンデルスゾーンの交響曲第3番において、ヴィオラが大事なところを歌うことは、よく知られている。しかし、ベルクにも、そのような部分があった。独奏者の左手によって奏でられる撥音は、ヴィオラ・パートだけに飛び火して、響きあうからである。それは再び三浦の左手に回収されていき、ヴィオラ・パートはまるで人形師に操られているようにみえた。

それ以前から、三浦文彰の弾くヴァイオリンは、私にはすこし大きめの楽器(つまりはヴィオラ)にみえたのだ。倍音などを輝かしく響かせることは控え、艶を消し、落ち着いた響きを淡々と奏でる。最初のうちは、それが凡庸なパフォーマンスにもみえたが、次第に、作品への強い調和を示すのであった。地味ながらも、悠然とアンサンブルの中心に佇む雰囲気が、歌劇的な昂揚を示した場合にも効果的に位置を占めるのだ!

三浦は敢えて、アンコール曲を披露せず、「3」を崩さないことにも参加した。それは一方では、彼らが実現させたベルクの理想的な形を、聴き手のなかに残しておくという意味でも重要であった。

ベルクの作品には、バッハのコラールが引用されていることは、よく知られている。録音によっては、そこをオルガンのような音色で奏でることもあるが、この日はそれほど印象的ではなく、むしろ、静かになぞられた。バッハを深く尊敬し、受難曲の蘇演を行うなどしたことも知られるようになったメンデルスゾーンの交響曲では、コラール的な素材や対位法が多用されている。こちらは堂々と、強調せられている。

ベルクの協奏曲は夭折した女性のために書かれたが、自らもしばしば墓穴を掘った、母親の前夫マーラーの呪いを、曲を書いたベルク自身が被るような形になって、彼自身の、完成した最後の曲になってしまった。メンデルスゾーンにとっても、「スコットランド」が最後の交響曲だ。前者は緩→急/急→緩という形で構成されるが、メンデルスゾーンを二部的に捉えるとすれば、急(序奏は緩)→緩/緩→急という形で、反転気味に進行し、ベルクの追悼的な意味を含めた演奏から、誇らしい表情を導いておわった。勢いのあるフィナーレではあるが、その円環を結ぶように沖澤は両腕で美しいアーチを描き、響きが切れたあとも、ゆっくり下ろそうとしていた。その意図は、一部の聴き手には伝わらなかったようだ。

尚、これらの作品にはケルンテンとスコットランドの民謡が引用され、コラール的な素材と協力している。ベルクは17歳のとき、ケルンテン出身の女中に子ども肚ませたことがあるといい、メンデルスゾーンの旅行も作曲よりもだいぶん前のことである。これらは、彼らの過去といえる。過去が、現在のように襲い掛かってくるのである。分厚い共通点が小説のように連なっている演奏会であった。謎はいくら解いても、尽きることがない。

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