神奈川フィルハーモニー管弦楽団 第369回定期

神奈川フィルハーモニー管弦楽団 第369回定期

2021年6月26日(土)神奈川県民ホールにて開催、神奈川フィルハーモニー管弦楽団 第369回定期の公演記録とレビュー/コメントのアーカイブページです。

公演日(初日) 2021年6月26日(土) 14時00分開演
会場 神奈川県民ホール
出演 指揮:小泉和裕
管弦楽:神奈川フィルハーモニー管弦楽団
演目 ベートーヴェン:交響曲第2番 ニ長調 Op.36
フランク:交響曲 ニ短調 FWV.48
参照サイト
2021年6月26日、神奈川県民ホールで行われた神奈川フィルハーモニー管弦楽団の公演情報です。
www.kanaphil.or.jp

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プロイセン

年2回ある小泉特別客演指揮者のかなフィル登壇。毎回のレベルの高い演奏に感銘を受けており、今日も期待して県民ホールへ足を運んだ。

前半はベートーヴェン交響曲第2番。14型で作られる豊かなサウンドは聴いていて楽しい。安定したテンポ設定で堅実に曲を仕上げた。

後半、フランク交響曲ニ短調の鮮やかさには驚きを隠せなかった。弦が華々しく歌い、オーボエとフルートが豊かに響く。コーラングレの物語を朗読するようなソロには惚れ惚れし、ホルンが脇を締める。
このようなフランクを聴くことができて望外の喜びであった。

やはり小泉とかなフィルのコンビは良い。今後とも聴いていきたいと思わせてくれた、良質な演奏会であった。

アリス

【ベートーヴェンとフランク】

前プロを置かず、ベートーヴェンの2番と、フランクの交響曲というシンプルなプログラムだが、特に何らかの共通点を見出すことはできない。強いていえば、フランクがこの作品の終楽章を第九になぞらえて語ったらしいことと、主調がニ長調とニ短調(D音に基づく)ということぐらいだ。両曲の初演は80年ほど隔たっているが、時代的な変遷よりは、様式的な特徴のちがいのほうがはるかに大きく見える。フランクの書法は、ベートーヴェンの次に現れた個性的な巨匠、エクトル・ベルリオーズの流儀からの影響(『イタリアのハロルド』など)がより濃厚かと思う。

最近では、この2曲の演奏機会はさほど多くはなく、2つが並ぶ演奏会といったら、もっと少ないだろう。フランクはとても好きな曲なのだが、個人的なことをいえば、ここで聴くのが生演奏としては初めてだったかもしれない。

【指揮者(小泉和裕)の特徴】

初めてといえば、指揮者の小泉和裕も、私には「初もの」であった。保守的な演目を選ぶ傾向が強く、アンテナに引っ掛かりにくい存在だったからである。しかし、多くの楽団で地歩を得ており、聴こえてくる評判も高かった。もしも地位的な野心が高ければ、そのキャリアはより華やかなものになった可能性も強いといわれるが、彼は農業をしたり、音楽的なもの以外に、自分が大事にしたいと思うことをかなぐり捨てることまでは望まなかった。

小泉は神奈川フィルでは、首席客演指揮者という肩書である。その実力は演奏会に入って、数秒で確認できるものであった。きびきびと几帳面に嵌まるサウンドの精確性は、明らかに一流の域に達している。欧州的な純粋音楽の美学を身につけ、それぞれの場面を過度に意味づけようとしない。しかしながら、そのサウンドには熱がこもり、気品があって、よく映えるのだ。まず印象づけられたのは、素朴で歯切れのいい、豪胆なベートーヴェン像である。

曲が進むごとに、彼の流儀がわかってくるが、とりわけ印象的なのは弦楽器のベースを重視していることである。このあたりは、いかにもドイツ仕込みという感じがする。そのベースの上に立脚する形で、様々なバランスが考慮されていくのだ。

一方で、オペラのような構築も巧みである。その意味では、前半はモーツァルト、後半は書誌的な解説に従い、ワーグナー・・・と言いたいところだが、この日の演奏から、より直截に思い描いたのはリヒャルト・シュトラウスの世界だ。小泉がオペラを振ったということは聴いたことがないし、多分、個性ゆたかな歌手との調整なども、得意なタイプとは見えないが、その表現法を自己薬籠中のものにしているのは間違いない。もしも彼が欧米の歌劇場でキャリアを続けていたら、サヴァリッシュのような厳格な指導者となったにちがいない。

【ベートーヴェンとフランクの『バス』のちがい】

ベートーヴェンと、フランクで特に異なっていることのひとつは、バスの使い方である。この意味で、ベートーヴェンのバス=コントラバスの用法は奔放である。演奏不可能ともいわれる第九がとりわけ有名だが、この2番でも、分厚い低音の機能を保ちながら、左手の難しいパッセージを決めるのは簡単ではなさそうだ。しかし、この日の神奈川フィルは健闘し、むしろ、そこが見せ場となった。米長幸一と高群誠一をフロントマンに、賛助奏者を含む7人を揃えたバスの、特に速いパッセージでの働きには耳目が釘付けになった。

一方、より頑丈で、厚みのある低音を望むなら、ベートーヴェンの時代のような名技性は必要ない。それほど細かく音を動かさずに、ドローンのような働きのほうが好まれるのはロマン派以降の特徴である。フランクの場合、その低音の動きに関心がもっていかれることは珍しいが、これも終楽章において、その不動ゆえに、響きが生える部分がひとつだけある。そもそも、この作品は低音弦のアルファであり、オメガでもあるところの動機から始まるのであるが、事はそう簡単ではない。

フランクの交響曲では、ベースはもはや、低音弦(コントラバスを中心とする)とは限らないのである。このベースは絶えず移動し、自由に構築される。ある場合には、それは対位法的な旋律のひとつということさえあった。

【本来のもの】

小泉の演奏では、そのようなことが判然と見て取れる。フランクの交響曲は荘重なレントで始まり、突如、野性味にみちた動的なモティーフが忽然と浮かび上がるが、多くの録音では奔放に叩きつけられ、岩が砕けるような響きなのが、今日は歯車のようにガシガシと噛み合っていたのだ。ここの部分で、私は度肝を抜かれた。幾分、迫力に欠けるが、いま、はじめて、フランクの書いた、本来のものが見えた気がしたのだ。

作品そのものはよく知っていたが、実際に、同じ空間で聴いていると、第1楽章が永遠に終わらないのではないかと思えるような、執拗なモティーフの循環。ショーソンのピアノ・トリオではさらに顕著に体験したことがあるが、フランクの本作においても、快楽と隣り合わせになった、深い圧力が感じられる。ベートーヴェンは既に主題労作を言っていたが、フランクのそれは、よりものものしい拘りとして感じられるのだ。

一転して、第2楽章は落ち着いた響きである。ここでも弦を深く隈取り、下手な感傷を排した小泉のクールな解釈が効力を発揮する。その響きはどこまでも素朴に聴こえ、自然な空気感と、田舎風の穏やかな祈りに満ちている。カヴァイエ・コル製の最新式オルガンから学ぶところが多かったというフランクではあるが、不思議なことに、地方の鄙びたオルガンの音がする。指揮台とかわるがわる農地にも立つ男の、じかに感じる大地に吹く風の音がするのだ。

とはいえ、小泉が別してオルガンの響きを模したことはなく、それが目立つのは、ほぼ1小節か、せいぜい数小節程度のものである。帰ってから、改めて昔の録音を聴きなおしてみれば、フランク=オルガンというステロータイプを実現するかのようなものも多く、ドイツ的なものとは一線を画す独特なものとして表現するものが多いなかで、この日の演奏は、まったく斬新な感じのしない、朴訥なものといえる。そこがいいのだ。

フランクは先に示したようなバスの考え方のように、細々とした斬新さを駆使して、ベートーヴェンの主題労作をさらに徹底した循環形式を生み出して、ワーグナーやベルリオーズを規範にとった出力法に当て嵌めていった。多くの人たちが、それでは飽き足らなかったところで、時計は少しずつずれていった。有能な修理職人である小泉は、再び、フランクの書いた作品にあわせて、取り寄せた部品を入れ替え、汚れを丁寧に拭き取って、時計の内部を磨き上げた。そうすることでしか見えない、斬新さもあるからだ。

演奏会を通して、鋭い響きを聴かせつづけた篠崎史門のティンパニ連打を基点として、いくつかの波を経て終結に至る部分の出来は、驚くべきものだ。弦主体という組織の構造は揺らがないものの、弦管のバランスはついに完成に至り、今月の演奏を鮮やかに締め括った。

【補足】

この演奏は、かなり良かったと思うが、このオーケストラのオーディエンスは、そこまで熱狂的なリアクションを示さない(欧州的かも)。神奈川県民ホールは大きなホールだし、コロナ下ではいくぶん後退して演奏しているとみえて、あまり一体感もないのは残念だ。当日は、競争も激しかったということだろう。しかし、オーケストラは現田さん、シュナイトさんの時代よりも、かなり良くなっていて、その良さをより深く把握するためにも、また来たいと思わせるだけの実質があった。

なお、かなフィルの楽員は終演後、ロビーに出て、オーディエンスの見送りをしているらしい。コロナ下ではそれもできかねるため、前回までは、予め収録した録画を使っていたそうだが、今回はリモートでロビーのモニターに映し出す方式を試したという。一応、相互のコミュニケーションもできるようになっていたらしい。結局、選挙も、芸術も、最後はフェイス・トゥ・フェイスということのようだ。オーディエンスにとっても嬉しいサーヴィスだが、楽団発信の楽屋側の映像をみると、演奏したほうも楽しそうに手を振ったりなさっていて、お互いのため、これは続けたほうがいいかなと思った。

らむーど

2021年6月26日 神奈川フィルハーモニー管弦楽団 定期演奏会第369回@神奈川県立県民ホール大ホール

皆様、ごきげんようm(__)m上記の演奏会に伺ってレビューを書かせてもらいます、らむーどと申しますが、先日も10月の神奈川フィルで特別客演指揮者の小泉和裕先生指揮の演奏会のレビューを書かせてもらったのですが(^-^ゞその時にこの上記の演奏会のレビューをいずれ書くかもしれないと書いたのですが(^-^ゞ今回は多少レビューを書ける時間が出来たので投稿しようと思いますが(^-^ゞこの演奏会当日からは少し時間が経ってしまった事をお許し下さいませm(__)m

当日の演奏会に行こうとした動機はやはりよさそうな席が空いていた事があって購入をして伺いましたが(^-^ゞ本当に素晴らしい演奏会だったので感無量でしたね(*≧∀≦*)

技術面や様子等は俺より先に投稿された「プロイセン」さん(先日もヘルベルトブロムシュテット指揮N響の定期公演と所沢の演奏会全てでレビューを書かれていて熱狂的なブロムシュテット信者で(*≧∀≦*)本当に素晴らしいレビューでございましたね(*≧∀≦*))と「アリス」さんが詳細に書かれていてその通りだと感じるので是非参照下さればと思いますね(*´ω`*)因みにリスナーの反応ではこれは間違いなく目に出来たものですが、1階席の中央寄りの席に座っていた「おばちゃん」(と書くと怒られるかもしれないですが(ToT))がベートーヴェンでもフランクでも立って拍手をしていたものを見たので(^-^ゞ終演後に皆様のツイート等での演奏会の感想を見た感じも含めて結構よい感じの雰囲気だったとは思いますね(*´ω`*)更に因みに10月の小泉先生指揮の演奏会でもこれは恐らくそうだったと思いますが、俺の席の少しだけ後ろに座っていた若い感じの男の子がやはり立って拍手をしていたものを見たので(^-^ゞ小泉先生が神奈川フィルを指揮するとかなりよい感じになると思いましたね(*≧∀≦*)でも特にフランクは俺が大好きな都響の永久名誉指揮者のジャンフルネのDENONから出ているCDで少し予習的に聴き込んだものもありますが(^-^ゞ特に第3楽章の頭のリズムやその後にチェロから続く全体を司るモチーフのフレーズ等が格好よいですよね(*≧∀≦*)

表現面ではやはり10月の演奏会で「取り戻す」と書いたのですが(^-^ゞ当日の演奏会でもベートーヴェンからフランクにかけて「濃厚」になってゆくものは感じましたね(*´ω`*)更に2曲共「余計な過度な表現も皆無」だと感じたのですが、これらにおいては「曲の真の姿」を徹底的に追い求めた先での「シンプルさ」でもあって、それは例えばバレリーナ等が「贅肉のない肉体の完成」の為にあらゆる鍛練をするものと似ている感じですよね(*´ω`*)そして、その「曲の真の姿」に照らし合わせながらその先に出来る「余白」のようなものに俺達が自由に表現を想像と創造をしてゆくものを感じましたが、それらの時にある意味で俺達一人一人でも全く違う人間が故に「各々での考え方」は完璧には分からない所はどうしてもあって(^-^;でもそれでもよいとも思うのですが(^-^ゞそれはなぜかというと「自分」から見た「他人」は「情報」であって、それは「照らし合わせる」という意味では必要で、それらの事から「確固たる自己」を作ってゆくように思うからですね。それから、それらの事では「自分なりの世界」を作ってゆく事でもあって、誤解を怖れずに書くとその過程は「脳内補正」でもあると思っていて(^-^ゞやはりある意味では「脳の重要性」を示してくれていた演奏会でもあったと個人的には思いましたよね(^-^ゞ

今後も色々な興味深い演奏会が続々と出てきて(^-^ゞ本当はブロムシュテットN響の池袋Aプログラム以外の定期公演や小泉先生の都響のプロムナードコンサート等も行きたい気持ちはありましたが(ToT)色々な家での都合や予算面等で断念する事も多々ありますが(ToT)本当に色々と活気付いているように感じる今日ですが、生きていると何が起こるかは分からない世の中だとは思うので、皆様の中ででもどうか油断せずに気を付けながら日々をお過ごし下さいねm(__)m

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